おおにゃんの邑南町歴史観光

島根県邑南町の歴史的観光スポットをつぶやく、謎のネコである。

二ツ山城跡出土の火縄銃の玉

二つ山城の鉄砲玉

火縄銃の玉は鉛でできており、戦国時代では大変貴重なものでした。

三千丁の鉄砲が使われたという、あの有名な「長篠の戦い」での、古戦場跡からは相当の数の鉄砲玉が出土しているのではないかと思われますが、そんなにないそうです。

つまり、鉛が貴重すぎて、合戦の後に回収したのではないかとも言われています。いやー、リサイクルとは素晴らしい。

そんなこともあって、鉄砲玉の出土は、なかなか珍しいとも言えます。

邑南町郷土館には二ツ山城の「蔵の段」から出土した鉄砲玉1個が展示されています。
「蔵の段」は、城跡の中で唯一石積み遺構がある場所で、おそらく武器庫があったと思われる曲輪です。

ちょっと話は逸れますが、その「蔵の段」は、東側の主郭(本丸)とは、神明空堀という巨大な堀で分断されています。主郭と武器庫が連携していないのは、どうも納得がいかない……私はいつも城跡に登る時にそう思ってしまいます。
いや、何か深い意味があるのではないか……。

ともあれ、二ツ山城出土の火縄銃の玉。ぜひ、邑南町郷土館にてご覧ください。

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「カエル注意」の交通標識が立つ ニホンヒキガエル産卵地

カエル注意!の交通標識

 「動物注意」という交通標識はよく見かけます。
イノシシや鹿がぶつかってきた時は、車も破損しますからね。

しかし「カエル注意」の交通標識とは、これ如何に?

これは、貴重なニホンヒキガエルの産卵地が道路脇にあるためなのです。
おとなり広島県では絶滅危惧種に指定されているニホンヒキガエル。相当の山奥なので交通も少ないでしょうが、それにしても峠部分に産卵地があるというのも珍しい話ですよね。
山の頂のようなところに水が湧いていないといけませんからね……。

産卵期は主に春、3、4月とのことですので、この標識を見たら、通行厳重注意ですよ。 

詳しくは、以下のリンク先をご覧下さい。

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芋代官・井戸平左衛門正明は石見の恩人

芋代官・井戸正明の碑

 邑南町、といいますか島根県西部ではよく見かけます。「井戸君」「井戸正明君」「井明府」と書かれた石碑を。

「井戸くん?」誰やねん。同級生にいたっけ?

そうではなく、これは江戸時代、飢饉にあえぐ農民たちを救った代官・井戸平左衛門正明を讃える石碑なのです。地元では「芋塚」「芋地蔵」とも呼ばれます。

井戸平左衛門は享保16年(1731)に石見銀山代官として赴任しました。

この頃、全国的な飢饉で農民は苦しんでおり、特に赴任翌年はウンカが大発生して西日本一帯は稲が枯れ大飢饉となります。
井戸代官はすぐに陣屋の米倉を解放して農民に米を分け与え、年貢も免除しました。これは急を要するため「幕府の許可なしに行った」と言われていますが、諸説あります。

また、彼の最大の功績として「サツマイモ栽培を手がけた」ことがあります。

やせた土地でも栽培が可能なサツマイモは、当時は薩摩藩でしか生産されておらず、また薩摩藩は徹底して鎖国体制をひいてサツマイモの情報を漏らしませんでした。

そんな中、なんとかサツマイモの種芋を手に入れ、手探りで栽培方法を確立します。
これは「甘藷先生」と呼ばれた青木昆陽がサツマイモ栽培を将軍・徳川吉宗に懸案することよりも数年早かったといいます。

これにより、全国で餓死者が10万人といわれた飢饉を、石見銀山領内では一人の餓死者も出なかったと伝えられています。

井戸平左衛門は享保18年には過労で病に倒れ、備中笠岡の陣屋で亡くなります。62歳でした。

しかし、彼の確立したサツマイモ栽培は石見地域を中心に広がり、多くの農民の命を救ったのです。
いつのまにやら井戸正明のことを「芋代官」と呼ばれるようになり、その功績を讃える石碑が各所に建てられました。その数は島根・鳥取で400基以上もあると言われます。

まさに、石見の恩人だったのです。

 

詳しくは、以下の記事をご覧下さい。

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久喜銀山跡 巨大な銀鉱脈と水抜間歩

久喜銀山跡

久喜銀山(久喜・大林銀山跡)は、いま邑南町では最も熱い歴史スポットと言ってもいいでしょう。
石見銀山世界遺産登録と共に注目され、その後発掘調査や観光地としての整備が進んでいます。

銀鉱脈の発見は中世まで遡り、毛利元就も活用したと伝えられ、明治時代に最盛期を迎えます。
一時は衰えますが、戦後まもない頃に再開発が行われ、昭和時代の間歩も残されています。

そんな久喜銀山の詳しいことは、以下のリンクからご覧下さい。
いくつかの地区に分かれており、それぞれに特色があります。

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また、久喜精錬所跡には、360度パノラマ写真もGooglemap上に置いてありますので、そちらも是非ご覧下さい。

西蓮寺山門 未完成の豪華楼門

西蓮寺山門

西蓮寺……なんでこんな山奥深くに浄土真宗の巨大寺院があるのか不思議で、これぞ石見地域の特色なのかと思ってしまいますが、それもその筈、元は真言宗の寺だったようです。

それが、琵琶甲城主・口羽通良によって浄土真宗に改宗した、ということのようです。

この口羽通良ですが、案内看板や書物によっては「毛利水軍を率いて石山本願寺に馳せ参じた」という内容のものがありますが、これは事実と異なります。
石山合戦当時は、口羽氏は吉川元春の元で山陰地域の統治に奔走していました。

実際にこの西蓮寺に入ったのは、口羽通良の三男の元可(元道)で、初代住職となっています。
江戸時代には、浜田藩菩提寺、徳川家の位牌所の一つとなり、石見、安芸、備後に多くの門徒を持ちました。

 

それにしても、この西蓮寺山門、巨大な楼門の割には、スカスカです。
これは「どんな者でも救うという、仏の慈悲を表す」とのことですが、実を言うと「未完成」の門なのです。

なぜ未完成なのか、それには諸説あります。
詳しいことは、以下のリンクからご覧下さい。

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