おおにゃんの邑南町歴史観光

島根県邑南町の歴史的観光スポットをつぶやく、謎のネコである。

芋代官・井戸平左衛門正明は石見の恩人

芋代官・井戸正明の碑

 邑南町、といいますか島根県西部ではよく見かけます。「井戸君」「井戸正明君」「井明府」と書かれた石碑を。

「井戸くん?」誰やねん。同級生にいたっけ?

そうではなく、これは江戸時代、飢饉にあえぐ農民たちを救った代官・井戸平左衛門正明を讃える石碑なのです。地元では「芋塚」「芋地蔵」とも呼ばれます。

井戸平左衛門は享保16年(1731)に石見銀山代官として赴任しました。

この頃、全国的な飢饉で農民は苦しんでおり、特に赴任翌年はウンカが大発生して西日本一帯は稲が枯れ大飢饉となります。
井戸代官はすぐに陣屋の米倉を解放して農民に米を分け与え、年貢も免除しました。これは急を要するため「幕府の許可なしに行った」と言われていますが、諸説あります。

また、彼の最大の功績として「サツマイモ栽培を手がけた」ことがあります。

やせた土地でも栽培が可能なサツマイモは、当時は薩摩藩でしか生産されておらず、また薩摩藩は徹底して鎖国体制をひいてサツマイモの情報を漏らしませんでした。

そんな中、なんとかサツマイモの種芋を手に入れ、手探りで栽培方法を確立します。
これは「甘藷先生」と呼ばれた青木昆陽がサツマイモ栽培を将軍・徳川吉宗に懸案することよりも数年早かったといいます。

これにより、全国で餓死者が10万人といわれた飢饉を、石見銀山領内では一人の餓死者も出なかったと伝えられています。

井戸平左衛門は享保18年には過労で病に倒れ、備中笠岡の陣屋で亡くなります。62歳でした。

しかし、彼の確立したサツマイモ栽培は石見地域を中心に広がり、多くの農民の命を救ったのです。
いつのまにやら井戸正明のことを「芋代官」と呼ばれるようになり、その功績を讃える石碑が各所に建てられました。その数は島根・鳥取で400基以上もあると言われます。

まさに、石見の恩人だったのです。

 

詳しくは、以下の記事をご覧下さい。

ohnan.saloon.jp